金属片やむなし

君の影を踏みに。

ニンゲンのアライ

料理の話をしよう。

とてもとても新鮮な、それこそ生きたままの羊をオーブンに入れます。温度は22度、付け合せに干し草も入れましょう。それと新鮮な水を欠かしてはなりません。
じっくりと加熱します。1週間かけて、24度まで加熱しましょう。その間に減った干し草を追加することを忘れずに。排泄物は適宜処理し、伸びすぎた毛は刈りましょう。できる限りの愛情をもって加熱することが肝心です。もしかしたら加熱の途中で出産するかもしれません。慣れていないのなら獣医を呼びましょう。きっとそれはそれは可愛らしい子羊と会えることでしょう。

鯉や鱸の調理法に「洗い」ってのがある。削いだ身を氷水に落として締める、というものだ。

いやに短い秋が終わり冬になった。特に今宵は触れたら切れるよな寒さだ。関東地方で積雪なんて話もでてる。僕たちニンゲンも調理されている途中に違いあるまい。24度のオーブンで加熱される羊は1週間のうち何度「メー」って鳴くのだろう。僕たちはこの冬にどんなことばを吐けるのか。

最終的にはおいしく召し上がっていただきたいのだが、さて。

小器用な猫

先日商店街を歩いていたところ、道ゆくおねえさんがすれ違いざまに足をもつれさせたのか、突然しなだれかかるように抱きついてきた。おれは驚きながらも肩を入れて彼女の体を支え、「大丈夫ですか?」と紳士的に訊いたのだが、混乱しているのだろう、おれの顔を見て目を白黒させるばかりで声が出ない様子。仕方がないので彼女の上体を持ち上げるようにして立たせ(驚くほど軽かった!)、支えがなくても大丈夫なことを確認して「もう大丈夫ですよ」と言うとようやく「すみません、ありがとうございます」と蚊の鳴くような声を絞り出した。香水だろうか、シトラスの香りが初冬の風にまぎれてツン、と鼻腔をくすぐった。

こんなマンガみたいなことってあるんだなあ、と思った。もちろんそれ以上に何かがあったわけでもなく、ペコリペコリと頭を下げ続ける彼女に少しの申し訳なさを感じつつ「お気をつけて」とその場を去った。うわおれちょう紳士じゃん!

思えば彼女は7〜80代、足のもつれやすいお年頃である。お年寄りには親切にしたいものだ。

瞳孔が横に開くアレ

都内某所を歩いていたら「メェー」と聞こえてきた。おれは「ヤギの泣き真似をしている奇人がいますね」と思い、声の方向に目を向けると本物のヤギがいてすこし混乱してしまった。
おれの日常では生のヤギを見ることが少ない。せいぜい動物園に行ったときに見るくらいで、あとはテレビや動画サイトくらいのものだ。生じゃないものでもいいのなら、たまに冷凍のヤギ肉にはお目にかかる。
そういう生活を続けていると、ヤギの声がしたときに「ヤギだ!」ではなく「ヤギの声真似をしてる奇人がいる!」という認知になってしまうのだなぁ、と。だってヤギよりも奇人に遭遇する確率のほうが(体感的に)ずっと高いのだ。

ヤギといえばどこぞの自治体が除草のために導入した、というニュースを目にしたことがある。もしおれが青々と草の生い茂る土地で「メェー」と聞いたら、「ヤギがいる!」と思うだろうか。「ヤギの声真似をしている奇人がいる!」と思うだろうか。

きっと「発声練習してる劇団員がいる」と思うのだろう。それとも「このあたりには昔、ヤギの屠畜場があってね……」とホラ話を紡ぎ始めるだろうか。いずれにせよおれの意識の中にヤギはいない。ヤギ不在。だからと言っておれの生活にヤギが不足してるという意識もない。ことヤギに関して言うなら、わりと満たされている。おれはこれ以上のヤギを望まない。おれとヤギはいい距離感を保っているのではないだろうか。

うっかり更新

なかなか読んでもらえない時代になったのだなぁ、と。

昔、個人サイトをやっていた。若い方には「個人サイト」と言われてもピンとこないだろう。しばらく前で言うところの「オウンドメディア」の個人版だ。おれが企画を立てて記事を書いて、おれが絵を描いて写真を撮ってデザインして、一から十までおれが作ってた、というか作らざるを得なかった。WEBって発表する場所だけがあって、「何をやってもいいですよ」とだけ言われるみたいな。

わりと色々やっていたほうだとおもう。「人力サーチエンジン」と称して<送られてきたキーワードを元にイチからサイトを作る>ということをしていて、20個くらいは作ったんじゃないか。そのうちのいくつかはちゃんと更新を重ねた。当時の芸風はサイコギャグが主体で、ハカセとその助手が読者から寄せられた質問に答えるのだけど実はハカセも助手も同一人物で多重人格のうちのひとり、みたいなまあブラックなやつ。もうキャッシュも残ってないから探しても無駄だぞ。特定禁止! きんしー!

それなりに見てくださる方もいて、それなりに反響もあった。今なら信じられないが、読者からメールをいただくことも少なくなかった。見ず知らずの他人にメールってどういう神経してるんだ。
あのころのネットは、今のように黙っていても情報が流れ込んできて粛々とそれを消費していくスタイルではなかった。人が集まるプラットフォームがなく、誰もがおもしろいものを探して放浪していた。ネットに「中心」はなく、全てが辺境であった。Youtubeまとめサイトもなろうも存在しておらず、立つべきステージは自分で作るしかなかった。だから作ったのか、というとそうでもなくて、何かしらおもしろいことをやりたくてやっていたら人が集まってきてステージというかみかん箱くらいにはなったかな、という感じだ。

翻って2016年のインターネット。ネット人口は爆発的に増え、もう「誰が書いたのか」というのはどうでもよくなった。毎日どこかの誰かがおもしろいことやバカなことをやっていて、炎上したりバズったりしてる。テレビすら素人がスマホで撮影した面白動画のまとめを垂れ流している。もう前のめりでおもしろいものを探す必要はないのだ。勝手に向こうからやってくる。我々は「それなw」と草を生やすだけでいい。それだけで毎日は過ぎていく。

なんだか文章が変な方向になってきた。別に今の風潮を嘆くつもりはないのだ。ただ昔に比べて「見つけられる可能性」は減ったな、と。ネット人口は増えた。そのぶん情報も増えた。このブログのPVなんて昔のサイトに比べて数百分の1だぞ!

まあいい。今のネットだって身の置き場はあるのだ。やりたいことを、やれることをやるだけである。

……などと偉そうなことを書いているが更新頻度は低い。今日だって祝日なのに間違えて出社してしまい、持て余した時間でこれを書いているくらいだ。つまりこれはおれのうっかりを切欠に生まれたうっかりエントリーである。えっへん。

R18

今日はアダルトなことを書く。なので18歳未満のひとはここで読むのをやめて、ママのおっぱいでも吸っててください(直球の下ネタ)。ここからはオトナのおはなしです。あ、高木さんはマリファナでも吸っててください(直球の時事ネタ)。

http://togetter.com/li/1041499

女性視点で撮影されたAVが女性に不評だった、というおはなし。まあそうなんだろうな、と。

前にどこかで書いたんだけど、
「お前らAV見るとき誰に感情移入してんの?」
という問題。

AVの撮影についてはよく知らないが、普通の撮影現場には以下のような人たちがいる。

ディレクター
演者さん
カメラマン
照明さん
音声さん
メイクさん
および上記のアシスタントさん

あと現場に同席することはあんまないけど、プロデューサーとか脚本家さん(テレビだったら構成作家さん)とか。

AVを見るときに上記のいずれかに感情移入できるひとってかなりの上級者な気がする。たとえば自分がメイクのアシスタントだと想像して、ディレクターから「ちょっとテカリ抑えてくださーい」って言われて女優さんにサッと駆け寄るところを思い浮かべてしてゾクゾクするひとはいやもう本当にメイクさんになってください、としか言いようがない。絡みシーンでガンマイク向けてる自分を想像して「この自分では決して手を出せない感じがいいんだよ」とかもうすごい高みに到達してるんじゃねえか。

とはいえ女優さんに感情移入することもできない。なぜならおれは女性じゃないから。どんな感じなのか想像のしようがない。
かと言って男優に感情移入している訳でもない。そうじゃなきゃ「うわっこの男優キモすぎ!」とストップボタンを押す自分を説明できない。

「お前らAV見るとき誰に感情移入してんの?」

思えばなにがしかの作品を鑑賞するとき、「感情移入」は必ずしも必要ではないのだ。
よく「自分には合わなかった、主人公がクズすぎて感情移入できなかった」などということを言うひとがいるが、逆に問いたい。「ホントに感情移入してる?」

その昔、任侠映画を見た後に肩で風を切って映画館から出てくるひとたちがいたという。ジャッキー・チェンの映画を見てその気になってしまうひとたちがいたという。主人公と自分を重ね合わせた結果だ。もちろんそういった鑑賞のしかたもあろう。でもそうじゃない鑑賞のしかたもあるはずだ。

じゃなきゃおれが少女マンガを読んでて、オラオラ系の男子がふと弱みを見せたときにキュンキュンする現象を説明できない。おれはいったい誰に恋しているのだ。これは誰の視点だ。なんでおれは枯れたおっさんに萌えているのだ。おっさんかわいいよおっさん!!

柘榴の味

はじめてちゃんとWindowsタブレットを触った。工場出荷状態からのアップデートの嵐、しかもデフォルトで画面がロックされているので縦向きで起動するとアップデートすらできないなどのトラップを仏が苦虫を噛み潰したような顔でやり過ごし、なんとか「普通に使える」ところまで持っていった。
ハハハWindowsめ、お前はいつの時代だって駄々っ子だ。いくらタブレットになって進化したとは言え、根っこの部分は変わらないのだなぁ、と積年の恨みつらみを思い起こしつつ柘榴を食べた後の鬼子母神のような表情を浮かべていたところ、何かがおかしい、と。
……このWindows、人肉の味がしないのである。鬼子母神は人肉の味がするという柘榴を食べて人を喰らう欲を抑えたというが(これはインドから中国を経て日本に伝わった際の俗説らしい)、このWindows(10のタブレットモード)はシングルクリックもできなければ右クリックもできない、Windowsとは違う何かなのだ。
iPhone以来、タッチスクリーンのUIは工夫と創造を繰り返してきた。フリック、長押し、スワイプやらあれやこれ。キーボードとマウスを使うのが前提とされるPC、MacのUIをリプレイスしてきた。エピゴーネンと揶揄されるAndroidもまた、倣ってきた。
しかしWindows10のタブレットモードはそれらからも乖離している。よく言えばオリジナリティがあり、悪く言えば特許がらみの苦肉の策である。Androidでさえできているのに、というのはクロスライセンスの問題だろうか。
これはWindowsではない。かと言って一般的なタッチスクリーンデバイスでもない。人肉の味がしない柘榴である。でも僕らは知っている、本当は柘榴は人肉の味がしないことを。キスはレモンの味ではないし、ミルキーがママの味だったらヤバすぎるだろう。プリンに醤油をかけてウニの味になるなら密漁者は根絶できるではないか。カレー味のウ◯コって誰かが実際に食べてなきゃカレー味って判別できないからな!

……おかしい。鬼子母神伝説をベースにちょっと知的な話にするつもりだったのに最終的にウ◯コとか言ってる。読んでいただき申し訳ない。

こういうの。

遅筆につきこんなブログでも1本書くのに(推敲含めて)1時間くらいかかる。1時間というのはそれなりの時間で、もしおれが時速100キロで走っていたら100キロ移動したことになる。東京から4号線を北上したとするとだいたい宇都宮のあたりだ。餃子が食える。

しかしながらおれは時速100キロで走っていない。ブログを書いていただけなので餃子が食えない。ここは宇都宮ではなく荻窪である。いや荻窪だって餃子くらいあるのだ、ただ今のおれはそんなに餃子を欲していない。もしおれが時速100キロで走っていたら宇都宮にいるはずだ、という仮定のもと、宇都宮つったら餃子だよな、という話なのであって別段餃子を食べたいわけではない。

もしおれが時速244キロで走っていたら、このブログを書いてる間に浜松に着いているはずだ。餃子が食える。でもおれはブログを書いてただけなので、

もっと速く走ろう。右足が沈む前に左足を踏み出せば水の上だって走れることは「キリストトカゲ」の俗称を持つバシリスク属が証明している。餃子の本場と言えば中国は大連、1時間で日本海を走り抜けて中国北東部の大連に辿り着くには時速何キロが必要なのか。

キリストの好物が餃子だなんて話は寡聞にして聞いたことがない。

さておれは時速何キロで移動するのが適切なのか。100キロ走った直後に餃子を食える気もしないし、そろそろ筆を置こうと思う。時速5キロくらいでお家に帰ろう。