金属片やむなし

君の影を踏みに。

Hop Step DIVE

「お酢」とも「お醤油」とも言うのに「お酢醤油」って言わないよね。「お味噌」って言うけど「お酢味噌」とは言わない。

(黙考中)

……じゃあ「おソイソース」って言えばいいじゃん!

思考の過程を省いてみました。取っ掛かりとオチだけはあるので各自お考えください。

Wednesday

西洋で13という数字が忌避されるのは、最後の晩餐がキリストとユダを含めて13人だったからだともいうし、絞首台への階段が13段だからだともいう。ロバート・プラントが歌う「天国への階段」はいったい何段なのだろう。

絞首台の階段を1300段にしてみたらどうだろう。一般的には1フロアあたり23段だからおよそ56階ぶん、だいたいサンシャイン60を登りきるくらい。

「やった、ついに登頂したぞ」という達成感と共に死ぬことになる。

死刑囚に刑の執行直前に長い階段を登らせることは非人道的であるとの批判は出てくるだろうが、プチ達成感を与えるのはある意味尊厳の回復ではないか。

乱暴なことを書いている自覚はある。「思考実験だから」と言い訳をする気もない。

これを書いてたら、有線から「天国への階段」が流れてきた。偶然ってあるよね!

RE-LIFE

昨晩は知り合いとその飲み友達と飲んでいたのだが、おれは「そうとう訳のわからないこと」を言っていた。自分でも言っていることがおかしいのがよくわかる。いや、おれ自身がどうかしているのであって、言っていることはそれなりに筋がと通っているはずだ。ただそれをわかっているのはおれだけなので、聞いているほうは「何を言っているんだお前は」状態であったと思う。


今日、どこにも出すあてのない文章を延々と書いて、わりと整理できた。おれが内面化していた「おっさん」スティグマは思っていたよりも根深くて、「どうせこのまま死ぬのだろう」と色々なことを放置してきた。雑な生き方を続けて自分を毀損してきた。少しずつ片付けていかなきゃならない。


若いころ、おれは変人になりたかった。他人と違うことが自分の価値になると思っている「ごく普通の」若者だった。

でも「おっさん」を内面化してからはずっと、「普通」でありたかった。「普通」であろうと努めてきた。でも結局のところ、おれは全然「普通」じゃなかった。自分で言うのもアレなのだけど、いつのまにかすげえ変人になっていた。こんな味の濃いおっさんってなかなかいないぞ。これはもうどうしようもないので、これからは変人として生きていくことにする。


ここ数日で怒涛のような意識変革が続いている。


いま一度、生き直そうとおもう。

おっさんという呪い

自分がおっさんであるということを内面化しすぎていたかもしれない。


世間におけるおっさんのイメージって良くないだろう。キモくて臭い、みっともない、いやらしい。まあ言ってしまえばスティグマなのだけど、いつのまにかおれもそう考えるようになっていて、電車で女子高生が隣に座ってくると「あー、まだそこまでキモくないのかも。よかった」と少し安心するようになっていたのであった。


この呪いというのはわりと強烈で、いつか自分も電車で痴漢の疑いをかけられて線路を走って逃げた挙句に転落して死ぬのだろうな、という気がしていた。冷静に考えてみればそんな奴は例外中の例外で、そもそもおれに痴漢願望は今のところない。何か脳に障害が発生すればあるようになるかもしれない。この「脳に障害が発生すれば」というのも強烈で、アルツハイマーなどでアニマル化する老人の話なんぞ聞いていると明日は我が身か、と空恐ろしくなる。


スティグマこええな。

っつーかおれはおっさんではあるのだけど、かなり特殊なおっさんだ。それを忘れていた。

たぶんおれはそのへんの若者より頭の回転が速いし、文化的で豆知識が豊富だし、トークスキルもある。それにメガネだってかけてる。けっこういいとこあるんですおれ。悪いとこもいっぱいあるけど。


おれが内面化してたのは「オヤジ化したおっさん」だったんだな。これって年齢あんま関係なくて、なる奴はもう20代でもおっさんくさい振る舞いをする。身内にそういう人間がいて、昔からオヤジギャグに関して天才的であった。オヤジギャグというのはオヤジくさい視点から発想することが重要で、くだらなくてエロくなければならない。おれは彼の発するオヤジギャグに「うわそれ女子いる前で言うか」とドン引きしながらもここまでくれば才能だよなあ、と感心したものだ。(ちなみにオヤジギャグに対しては「黙れ」「死ね」「地獄に落ちろ」などと食い気味につっこむのが正しい)


年齢を重ねるにつけどうしても体力や肉体に衰えはくる。年を取ったな、という実感を「自分がオヤジ化した」と重ねていたのだろう。確かにおれはおっさんだけど、それ以前におれというアクの強いキャラクターだったのだ。


先日某所で「おっさん勘違いするな」と盛大に叩かれた。おっさんはじめての炎上。それもこれもおれがおっさんだからで、おれが若かったら叩かれてないはず、でもねえか。男ってだけで叩かれてたかもしれない。あいつらなんでも叩くからな。

っつーかコメントがどれもこれも的外れで、意外にも全然ダメージがなかった。みなさんおれじゃなくて「自分の中の何か」を必死で叩いているように見えて、全然叩かれてる気がしなかったのだ。まあ炎上すると的外れなのがS/N比で増えるのだろう。そびえ立つ「知らんがな」の山。


おれの他にも「おっさんだから」という理由で肩身の狭い思いをして生きているおっさんもたくさんいると思う。まあ助ける義理はないので特に言うこともない。おっさんは自分でがんばれ。


気がつけば随分とおっさんをこじらせていた。しかしこうして文章にすることでリカバリできた。気がつくきっかけをくれた友人に感謝したい。


っつーかおっさんになってまで「僕はここにいてもいいんだ!」ってシンジ君かよ。エヴァなんてもう20年前だぞ。そりゃおれもおっさんになるわ(以下ループ)

夕方の中野にて。

嫌いなものについては書かないようにしている。不毛だから。というか何かを嫌うというのもエネルギーを使うので、そんな暇があったら何かを好きでいるほうがいい。



で、好きなものがあるというのはいいことだなあ、と。どうした新しく宗教でも始めたか、という声が聞こえてきそうだが、そうではない。



先日、ともだちができた。

COALTAR OF THE DEEPERSとと24年組の話ができるともだちだ。フリッパーズPEOPLE IN THE BOXもイケる。これまでの人生でそんな奴はいなかったので、話していてトテモ楽しかったのだ。ああ好きなものについて話すのってこんな楽しかったっけ、と新鮮な気分になった。



そんなのインターネットにいくらでもいるだろう、とおっしゃる向きもあるかもしれない。ダメなんだよそれが。バンドマンは人間で、かつ人前で活動するから、どうしてもモテる。ロックバンドにはグルーピーがいる。ネットで検索すると誰を食っただの堕胎させただの真贋交えてそういったノイズばかりがドロドロと渦巻いていて、そういったものを見るのは趣味ではない。

おれはミュージシャンの私生活には興味がないし、単純に作品だけを聴いていたいのだ。



そのともだちとはネットで知り合った。

インターネットの向こう側には人間がいる、という当たり前のことをおれは忘れかけていた。ネット上の「お前ら」はなんと個人の集合であったのだ!



なんで会おうと思ったのかを訊いた。「せっかくインターネットがあるのだから、いろいろな人と会ってみたい」みたいな答え。意識高いな!

危険ではないか、と訊くと「ちゃんと会う人は選んでいる」とのことだったが、ネット上のおれのことを「中性的な印象」とか言ってたので根本的に人を見る目がないのだとおもう。気をつけましょうね。



長いことインターネットに引きこもっていたが、こうやってネットで知り合った人と実際に会ってみて、そしたらちゃんと人間が出てきて、気が合って、という経験をして、あれこれって悪くないんじゃね? と思ってしまった。n=1の成功体験だけど、もうちょっと気軽になってみてもいいのかもしれない。

カフカ「変身」に勝手な注釈をつけてみた

表題の通りです。

なおテキストは青空文庫よりお借りしました。

 

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ある朝、グレゴール・ザムザ(※1)が気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。彼は甲殻(※2)のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、かけぶとんがすっかりずり落ちそうになって、まだやっともちこたえていた。ふだんの大きさ(※3)に比べると情けないくらいかぼそいたくさんの足が自分の眼の前にしょんぼりと光っていた。

 

 

※1 本作の主人公。毒虫になってしまった氏の女体化が待たれる。

※2 から。カニの甲殻は砕いて炙ってから油に浸漬して80℃で一晩抽出すると良質なカニ油になる

※3 当社比

 

 

「おれはどうしたのだろう?」と、彼は思った。夢ではなかった。自分の部屋、少し小さすぎるがまともな部屋が、よく知っている四つの壁のあいだにあった。テーブルの上には布地の見本が包みをといて拡げられていたが──ザムザは旅廻りのセールスマンだった──、そのテーブルの上方の壁には写真(※4)がかかっている。それは彼がついさきごろあるグラフ雑誌から切り取り、きれいな金ぶちの額に入れたものだった。写っているのは一人の婦人で、毛皮の帽子と毛皮のえり巻とをつけ、身体をきちんと起こし、肘まですっぽり隠れてしまう重そうな毛皮のマフを、見る者のほうに向ってかかげていた(※5)。

 

 

※4 昔の人は写真を撮られると魂が抜ける

と信じていた。昔の人は心配性だったのだなあ。

※5 「毛皮づくし」なのか「毛皮ざんまい」であるのか論が分かれる。なおザムザが甲殻を纏っているのと対照させている模様。

 

 

 グレゴールの視線はつぎに窓(※6)へ向けられた。陰鬱な天気は──雨だれ(※7)が窓わくのブリキ(※8)を打っている音が聞こえた──彼をすっかり憂鬱にした。「もう少し眠りつづけて、ばかばかしいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と、考えたが、全然そうはいかなかった。というのは、彼は右下で眠る習慣だったが、この今の状態ではそういう姿勢を取ることはできない。いくら力をこめて右下になろうとしても、いつでも仰向けの姿勢にもどってしまうのだ。百回もそれを試み、両眼を閉じて(※9)自分のもぞもぞ動いているたくさんの脚を見ないでもすむようにしていたが、わき腹にこれまでまだ感じたことのないような軽い鈍痛を感じ始めたときに、やっとそんなことをやるのはやめた。

 

 

※6 当時はまだWindowsがなかったので、これは含むところのない文字通りの窓である。

※7 類似のものに「秘伝のタレ」があるが、こないだ「hiddenのタレ」というダジャレを思いついた。

※8 映画「ブリキの太鼓」には池に牛の頭を沈めてウナギを獲るシーンが登場する。あれを日本人全員に見せたらウナギの消費量は激減するとおもう。

※9 一般的な昆虫にまぶたはない。

 

 

「ああ、なんという骨(※10)の折れる職業をおれは選んでしまったんだろう」と、彼は思った。「毎日、毎日、旅に出ているのだ。自分の土地での本来の商売(※11)におけるよりも、商売上の神経の疲れはずっと大きいし、その上、旅の苦労というものがかかっている。汽車の乗換え連絡、不規則で粗末な食事、たえず相手が変って長つづきせず、けっして心からうちとけ合うようなことのない人づき合い(※12)。まったくいまいましいことだ!」

 

 

※10 一般的な昆虫に骨はない。

※11 あきない。短く持ってコツコツと。

※12 交際。トテモむつかしいもののひとつ。

 

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なんか思ってたより上手くいかない。というかオチが付けられなかった。まあ遊びとしてはアリな気がするので今度はもっと上手くやります。

Cat walk

自分でできることは、自分でやればいい。

たいがいのことはトライ&エラーを繰り返せばできるようになるし、やってみることで見えてくるものは多い。

昼休み、昼食を摂るための店を物色していると、ふと「猫が人間になったらどう歩くのだろう?」と疑問におもった。

自分でできることは、自分でやればいい。

やってみよう。

猫の歩みは、人間よりもサスペンションがやわらかい感じだ。足首とか膝をやわらかくしてみる。

猫が人間になったら、きっと猫であったクセが抜けないだろう。すなわち前脚であった肩も連動してしまうに違いない。ちょっと肩を揺らすように歩こう。そうすると腰を回転させる必要が出てくるな。でも頭は動かないように。こんな感じか。

おれの中でどんどん完成度が高まっていく。自分の身体感覚を普段の「人間のつもりであるところの人間」から「猫が人間になったなにか」にシフトチェンジする。いつもより肉体を意識するようになる。これだ。

おれは「人間になった猫」のように歩いているのだけど、きっと道ゆく人たちはそれに気づいていない。「なんか妙な歩きかたをしているバカがいるな」くらいに思うのが関の山であろう。ひそやかな愉悦がここにある。

……ふふふ、おれは今「人間になった猫」のつもりで歩いているのだ。君たちは知らないだろうけど。

ファッションショーなんかでモデルが歩く花道を英語でCat walkと言う。モデル歩きが猫っぽいかというとそうでもない。

自分でできることは、自分でやればいい。

やったからといって何かの役にたつわけではない。

……おれは一体なにをしているのか。