金属片やむなし

君の影を踏みに。

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袖口の緩いシャツを着ていて、左腕を捲ったところツツツ、と肘まで剥けた。ふむ、と右腕でも同じように捲ってみたが途中で引っかかる。そうか、人間とはアシンメトリにできているのだな、としみじみ感じた。


……などと書くと何やら含蓄のあることっぽいが、実際には「そりゃ右利きだから右腕の筋肉量が多いのは当然だろ」くらいのわりとドライな感想を抱いただけだ。


たいがいのことは「人間」や「人生」に喩えることが可能だ。やってみよう。


砂防ダムは人間に似ている。砂防ダムがあるのは山間部の渓流、まさに人生と言っていい。上流から流れてくる砂を貯め込み、次第に上澄みの量が減っていく。かつて軽々と水を流していたはずが、貯まりゆく澱が増えるにつれ苦しくなっていく。これは浚渫という作業を行うことでリカバリできる。底に貯まった砂を掘り出し、流れを回復させるのだ。しかしながら実際に浚渫が行われる事例は少なく、ただ本来の目的を喪ったまま打ち捨てられる砂防ダムは多い。


何かを言っているようで何も言っていない文章なのだが、これを読んだあなたは不覚にも共感してしまわなかったか。人間は砂防ダムではないことは明白である。砂防ダムを目にして人間を連想してしまう人は医者に罹るべきだ。


アンドロイドは人間に似ている。そもそもアンドロイドは人間を模して作られたものだから、それは必然であろう。私はアンドロイドの瞳が人間のそれのように光る瞬間、人間とは何かと考える。「似ている」とは本質的に「同じではない」ということだ。ではその差異とは何か。何が私を「人間」とし、彼を「アンドロイド(=人間ではないもの)」たらしめているのか。…そこに「嫌疑を抱くこと」こそが「人間」であることの証左なのではないか、と思うのである。


最後の段で論理の飛躍がある、レトリックの無駄遣いだ。けどこれくらいの文章って結構あるぜ。アンドロイドを見て人間を連想してしまう人はまあ正常、ただしSoftbankpepperは除く。


人間は人間に似ている。人間がさも人間であるかのように振舞うさまは滑稽ですらある。人間が人間のくせに人間であるかのように振舞おうとする、さながら人間が人間を名乗るように。人間の行動をトレスする人間はアンドロイド以上に人間的であり、トレスするという行為自体が人間性の毀損であることに留意せざるを得ない。我々は人間以上に人間的であれるだろうか。人生というのが人間的であり続けることだとすれば、僕たちは人間ではなくアンドロイドの夢をみているのかもしれない。


もう訳わかんねえな。