金属片やむなし

君の影を踏みに。

犬は吠える

何事にもルールは必要だ。闇雲に自由を求めるのは悪手でしかない。


たとえば現代音楽について考えてみよう。ここでいう「現代音楽」とは現代の音楽のことではなく、所謂クラシック音楽における現代音楽のことだ。

4分33秒」という曲名を聞いたことがあるだろう。ジョン・ケージの手による現代音楽の代表曲だ。ステージに現れた演者はストップウォッチをスタートさせ、ピアノの蓋を開けたり閉めたりする。その間に観客は咳をしたり、鼻をかんだりする。

ものすごくざっくり言うと、「音楽」とは何か? というメタ的なやつだ。そこには「音楽の3要素」と呼ばれるリズムもメロディもハーモニーもない。音楽の持つプリミティブな享楽的要素がなく、観念的な喜びだけがある(「知的遊戯」的な快楽と言い換えてもいい)。


お行儀のいい話をするつもりはない。ロックやテクノの文脈に目を移すと、「ノイズ」と呼ばれる一派がある。リズムや音階を廃しながらビートだけを残してみたり(これはミニマリズムに行き着く)、リズムを残しながら音階やヴォイシングを殺していったり(エモい方向)。このあたりは、まだプリミティブな享楽的要素を廃していない。


まあどっちもキワいんだけど、このふたつの差異って享楽的要素の有無だ。音楽を聴いて、気持ちよくなれるかどうか。もっと言うと「気持ちよくなる」ことを是とするか否か。「芸術」とは果たして観念的なものであろうか。


「芸術」と「エンタテインメント」が異なるものだとは思わない。

強いて言うなら既存の感覚を肯定するのがエンタテインメントで、それを拡張するのが芸術であろう。でもそうじゃないよね。良質のエンタテインメントは感覚を拡張するし、くたびれた芸術は感覚を慰撫するだけだよね。


従前のクラシック音楽ってピタゴラス音階ってルールに縛られていた。そこから逸脱するひとたちもステージに登ったけど、コンテキストを解しない人たちからは受け入れられなかった。「音楽って何?」ってのは音楽を聴かない人には無用の問いであった訳だ。


先に書いたエントリは文章の意味を廃してみたものだ。ことばの響きと文章構造だけを残してみた。うむ、ひとりよがりであったな、と反省することしきりである。